資料紹介(7) 疎開木札

「鉄道荷物」木札(画像の一部を加工)


今回は平岩邸の資料から「疎開木札」を紹介したいと思います。
ここでいう「疎開木札」とは、「チッキ札」と呼ばれた「鉄道荷札」のことです。
この画像は米吉の妻・佐与子が疎開先の栃木県から東京の米吉宛に荷物を送る際に使用した荷札であることがわかります。


平岩一家は東京大空襲直前の1945年3月6日に、縁故のある栃木県に疎開します。
疎開先は米吉の父・6代目甚助から継いだ土地で、竹問屋時代に竹の供給地となっていた場所でした。
そこでの疎開生活については米吉の長女・由伎子による米吉の伝記『狼と生きて』に綴られています。
この木札も、その疎開生活の前か合間に使用されていたものでしょう。
その後、一家は5月末に山形へ再疎開しています。



「疎開木札」の包み紙


さて、そもそも「鉄道荷札」とは、1986(昭和61)年まで続いた国鉄による駅留めの鉄道輸送サービス(通称「チッキ」)で使用された荷札のことで、通常は紙製でした。
木札である理由ははっきりわかっていませんが、「疎開」の時期と関わる理由であるとすれば、総動員体制下の紙不足によるものと推測されます。
平岩邸資料には、このような「疎開木札」が20枚ほど、包み紙に包まれて保存されています。



簡素な疎開木札(画像の一部を加工)


そのなかには、冒頭の画像よりもさらに簡素な木札も。
宛先等を記すためのゴム印がなく、ワイヤーではなく紙紐が使われています。
製造・使用された時期の前後関係や変更の詳細はわかりませんが、物資のさらなる不足を反映したものであることを想像させます。


「フィラリア研究会 試験犬」木札(画像の一部を加工)


この「疎開木札」のなかには「フィラリア研究会 試験犬」と書かれた木札もありました。
こちらも詳細はわかりません。
あくまで想像ですが、宛先の駅名が書かれていないことからすると終点・上野駅留めだったから、発送者が書かれていないのは受託手荷物だったからではないでしょうか。
しかるに、犬フィラリア症と思しき症状で亡くなった犬を東京の獣医のもとで解剖などしてもらうために受託手荷物として預けた際に使用した荷札だったのではないかと推測しています。



そうなると、『狼と生きて』に疎開先に連れていった犬はシェパードのキングだけだったとあり、キングが亡くなったのは1946年夏ですが、その際に使用されたものなのか*1、そうでなく、戦時中に他家の犬に使用したものであるならば、亡くなった犬を「試験犬」として明記することのうちに供出圧があったのかなど、さまざまな疑問が浮かんできます。
とはいえ、想像が大部分を占めるうちに考え得る疑問ですし、冗長になりますので、これ以上の言及は避けておきたいと思います。

*1 自由が丘の平岩邸が不法占拠されたことにより、米吉は戦後もしばらく栃木と自由が丘の二重生活を送っていました。


畜犬票


最後に「疎開木札」と同じ包み紙に包まれて残されていた畜犬票を紹介して終わりにしたいと思います。
こちらも詳細は不明ですが、キングの形見ではないかと推測しています。


犬と関わり合いながら戦争末期を生きた平岩一家の疎開生活の一端が垣間見える資料ではないでしょうか。