【けものがたりの足跡】第1回:母と子のけものがたり


written by Katsutaka Hojo


 最近、どんなに大きな書店を訪れてみても、「動物文学」の棚をみることがない。かつて、少なくともぼくが小学生を卒業する前後(すなわち1980年前後)までは、外国人作家ではファーブルやシートン、日本人作家では戸川幸夫や椋鳩十ら、(児童文学を中心に)動物を主体に据えた文学がそれなりに刊行されており、それらを取り揃えた書棚が、書店や図書館には少なからず設けられていた。当時に比べて生命倫理、環境倫理は進展し、アニマル・ライツやアニマル・ウェルフェアの考え方も広まっているはずだが、なぜか現在のほうが、動物文学は低調のような気がしてならない。それはいったいなぜなのだろうか。もちろん、「動物文学」の定義が曖昧な問題は否めず(どこからどこまでが動物文学なのか? 動物が主人公ならば動物文学なのか?)、あえてそうしたカテゴリーで括らなくても、同種の物語りは別の形で存在する…ということもあるかもしれない。しかし、果たして理由はそれだけだろうか。


 この疑問は折に触れてぼくの脳裏に浮かんできたが、これまで正面から向きあうことはなかった。今回、江川あゆみさんから、「『平岩米吉邸文書 調査研究プロジェクト』のホームページで一緒にブログをやりましょう」と提案をいただき、どんなことが書けるか考えているうちに、雑誌『動物文学』を創刊した平岩に因んで、そろそろこの件に取り組んでゆくべきかと思い立った次第である。そうして、自分の読んだ動物の物語りを想い出してみるにつけ、かかる動物文学の問題は、やはりぼく自身の読書遍歴、その背景にあるメディアの展開と密接に関わっていることに気がついた。自分を物語り化することは極力避けたいが、一方で、ぼくという主体の経験なしには、この話題は語りえないようにも感じる。過剰な自分語りは可能な限り回避しつつ、1970年代から現在に至るまでの、やや私的な動物文学体験を摘記してゆきたい。それが、誰も振り返ろうとしない「動物文学ブーム」の一隅を、少しでも浮かびあがらせることになれば幸いである。


 さて。ぼくにとって、初めての動物文学体験がいったい何であったのかは、なかなか特定が難しい。自宅には『ダンボ』や『バンビ』『ジャングル・ブック』といったディズニー作品、『おたまじゃくしの101ちゃん』『からすのパンやさん』といったかこさとし作品、エドアルド・ペチシカ&ズデネック・ミレルの『もぐらとずぼん』『もぐらとじどうしゃ』、そして「ひとまねこざる」のシリーズなど、2人の兄のお下がりで、動物が主人公の絵本はたくさんあった。また、母がよく寝物語に、小学館の少年少女文学全集(『カラー版 少年少女世界の文学』だったか…)や松谷みよ子の『日本伝説集』などを読み聞かせてくれて、そのなかにも少なからず、動物の活躍する話のあったことを覚えている(イソップやグリムは、同書に含まれていたように思う。母は朗読が巧みで、優しい口調で読み進めてゆくが、ときどき自分でも考え込んだり、あるいは昼間の仕事の疲れでうたた寝して、語りが途切れてしまう。ぼくは物語の次の展開が知りたくて、親を思いやることなど一切なく、「おかあさん!寝てるよ!」と容赦なく催促したものだった)。しかしそれらの大半は、(野生の世界を描いていながらも)リアルな動物像とはほど遠く、概ね人間世界の教訓や分かりやすい成長物語を、動物キャラクターへ仮託する寓話に過ぎなかった。子どもが動物に感情移入しやすいのは、それらを通じて多角的に世界を知ろうとする野生の技術か、それとも社会が同一カテゴリーに構築してしまっているせいだろうか。


 ただし、そうしたなかにも、心に残る作品はある。映像・音楽の一体化したメディアとしては、虫プロダクション製作の短編アニメーション『やさしいライオン』。どれくらいの年齢の頃だったか、町内会の野外上映会で観た記憶が、ぼくの映画体験の始まりかもしれない。1970年に東宝チャンピオンまつりで初映されたもののようで、ぼくが出会ったのはその3〜4年後だろう。テレビが普及したといっても多くが小さな白黒画面だった当時、野外の広場や小学校の講堂などで、カラーの映画をみせる(主に夏の)催しがけっこうあった。『ライオン』はやなせたかしの原作で、彼自身が演出も担当し、デッサンのようなタッチを活かした実験的な絵作り、グラフィックな画面構成が秀逸だった。犬の仮母ムクムクに育てられた臆病なライオン・ブルブルが、成長してサーカスの花形になるが、年老いて死の間際にあるムクムクに会いに、夜の街なかへ飛び出してゆく。しかし、それを人間たちが許すはずはない。ラストは悲劇的だが、ボニージャックスの主題歌をバックにブルブルが疾走するさまは、いまでも脳裏に焼き付いている。「映画とは、走ることとみつけたり」とは、誰の言だったか。のちに、鴻上尚史『ジュリエット・ゲーム』(ヘラルド・エース=日本ヘラルド映画、1989年)やトム・ティクヴァ『ラン・ローラ・ラン』(ソニー・ピクチャーズ・クラシック、1998年)で痛感することになるその真理は、もうこのときに刷り込まれていたのかもしれない。上映会では他にも幾つかのフィルムがかかったはずだが、『ライオン』以外はまったく記憶に残っていない。


 けれども『やさしいライオン』を、当時原作本で読むことはなかった。あくまで活字の世界に誘われたものとすると、何が最初なのだろう。マージョリー・キナン・ローリングスの『子鹿物語』も自宅にあった気がするので、やはり寝物語に聞いたかもしれない。『やさしいライオン』にも共通する、「動物の世界と人間の世界は異なるのだ」という隔絶の学習を、少年少女の通過儀礼と位置づける物語り形式は、案外に普遍的なものなのだろう。『子鹿物語』はその典型といえるが、隔絶を正当化する点がどうにも居心地悪い。それよりも、同種の語り口でありながら連続を志向する点で、スターリング・ノースの自伝的作品ともいうべきネイチャー・ライティング、『はるかなるわがラスカル』(1963年)が愛おしい。もちろんこの作品も、最初から活字で読んだわけではない。出会いは『ムーミン』や『アルプスの少女ハイジ』に始まる「カルピス世界名作劇場」(あるいは「世界こども劇場」)、『あらいぐまラスカル』(日本アニメーション、1977年)である。『ハイジ』のヨーゼフ、『フランダースの犬』のパトラッシュ、『母をたずねて三千里』のアメディオなど、一連の作品には概ねマスコットのような動物が登場していたが(当時、カルピスのラベルを集めて送るとそのぬいぐるみが貰える、というキャンペーンがあった。ぼくも挑戦し続けたがついに当選することはなく、それ以降今に至るまで、「抽選」という言葉に疑惑を持つようになってしまった)、『ラスカル』は、アライグマという聞き慣れない動物を主人公に据え、しかもリアルな(生態的知識に基づく)動物/人間の友愛、葛藤を描いた点で画期的だった。


 小学生のぼくは本当に夢中になってしまい、学校の友人たちを誘って「ラスカル・ファンクラブ」を作り、『ラスカル新聞』なるガリ版刷りの新聞を、何号か発行した記憶がある。自分が何を話題に書いたかはもう忘れてしまったが、それに反して会員証などを作ったことは覚えているので、同好の士を募ること自体が目的だったのかもしれない。もちろん物語の筋そのものは、そののち何度も再放送などで観直したので、しっかり心のうちに定着している。先に述べたように、枠組み自体は『子鹿物語』とさほど変わらないのだが、ひとつ大きく異なるのは、スターリングもラスカルも〈母のない子〉であり、両者がお互いの存在を通じ、その喪失感を克服してゆく構造を持っていた点である。アニメ版では、ラスカルの母親は毛皮目的の猟師に殺されてしまい、偶然居合わせたスターリングと友人のオスカーが、アライグマの赤ん坊を助けることになる。原作では少々筋が異なり、ラスカルを母親から引き離すのは当のスターリングたちなのだが、オスカーの父親は〈害獣〉のアライグマを何度も殺害しており、「あらいぐまの性質と、あらいぐまを愛するわたしたちの年頃の少年とに、あまりに思いやりのなさすぎるおとなの世界をいきどおる気持ち」〔川口正吉訳、学習研究社、1964年、p.19〕が語られる。少年たちの心のありようをストレートに表現するうえで、アニメ版の脚色は成功しているといえよう。


 原作は、スターリングがラスカルと出会ってから別れるまでの、1918年5月〜1919年4月のほぼ1年間の出来事を綴る。アニメ版は、その内容を可能な限り大切にしながら、アメリカ東北部における1900年代前半の人びとの生活、子どもたちの成長を軸に、野生/文化の葛藤、トム・ソーヤー的な冒険譚(カヌー作りをともなう!)などを、過不足なく配している。いつもは愛らしいラスカルが、トウモロコシの味を覚え狂ったように畑を荒らしてしまうさまなど、いま考えても見応えがあるし、何といってもロック・リバーを遡り、「コシュコノング湖の向こう岸」へラスカルを放つ最終回。ラジカセをテレビの前に置いて録音し、台詞を覚えるまで何度も何度も聞いた記憶がある。当時、原作本は学校の図書室でみつけて読んだが、今回文庫本を古書店で購入し、あらためて頁をめくってみた。月夜の湖畔、雌のアライグマの声に惹かれ、スターリングを振り返ってやや躊躇いつつ、森へ帰ることを選ぶラスカル。スターリングはカヌーの向きを変え、一心不乱に櫂を取る。しかしそれは、『子鹿物語』の主人公ジョディが子鹿のフラッグを殺さざるをえなくなるような、矛盾を抱え込む〈大人の世界〉をやむをえず受け容れてゆくような、現状肯定的な断絶ではない。少年のアライグマたちへの敬慕は、彼、スターリング・ノースが死の床へつくまで続いたのである。


 昨年、『赤毛のアン』の翻訳・研究で知られる松本侑子さんが、「生きる喜び、読む楽しみ」という連載で、『ラスカル』の簡単な紹介を書いていた〔第40回「はるかなるわがラスカル」、『女性のひろば』506、2021年〕。そこでも触れられていたのだが、1918〜1919年とは第一次世界大戦とスパニッシュ・インフルエンザの時代であり、そのあたりの描写に、いまあらためて読むべき必要性も見出せよう。例えば前者について、戦火の報道は子どもたちの戦争ごっこにも熱を持たせるが、自分たちの身近な存在に死が及ぶに至って、彼らも厳粛な気持ちに包まれてゆく。〈自粛〉の恐ろしさも忍び寄る。後者については、大流行のなかでスターリング自身も罹患し、伯母のいる郊外の農場へ避難することになる。


 町の北はずれに住んでいた高齢のある老夫婦などは、おそらく重症を押して無理をしたせいでもあろうが、屋敷の井戸からひと桶の水を汲む途中で死んだ。老人はポンプにとりついたまま息がたえ、老夫人は夫のそばで、硬くなった指にバケツの柄を握って死んでいた〔川口訳前掲書、p. 214〕。


 そうであってはいけないのだが、つい最近、どこかの国でみたような情景でもある。

 なお、奥付を確認していて驚いたのだが、この初訳は、1964年の6月20日に初版が刊行され、1ヶ月に満たない7月10日には、すでになんと34刷を数えている。大ベストセラーといっていいだろう。カバーの見返しには、当時の国立科学博物館館長 岡田要が紹介文を載せ、3年後にはやはりアライグマがテーマのノンフィクション、『わが森の賢者たち:あらいぐまと私』(早川書房、1967年、原著1966年)も翻訳・刊行されている。いまやアニメ版を介してしか語られず、すっかりファンシーなキャラクターになり下がってしまったラスカルだが、すでにその10年以上前には、ネイチャー・ライティングとしての原作が広く読まれていたのである。


 今回は、『やさしいライオン』と『はるかなるわがラスカル』の話題に終始したが、図らずも、この2作品は母と子の物語で、自分のマザコンぶりを曝けだしてしまうことになった。『ラスカル』の次の文章を読むと、自分の母の読み聞かせの声が聞こえてくる気がする。女性性の野生への疎外の問題は、もちろん考慮しなければならないが、世界なるものの基礎は、やはり母親の声によって構築されているのかもしれない。


 それから母は、すぐれた教師のように、わたしにもよく理解できるやさしいことばをつかって、単純な形の生命から、どうして現在見るような複雑なすばらしい動植物が進化してきたかを説明してくれた。わたしは、母ほど優しい、ものわかりのよい人はないと思っていた。母の声を聞くほどここちよいものはなかった。ブルーレー河の支流を遡ってゆきながら、母がすぐそばにいて話しかけているような錯覚をわたしは抱いていた〔川口訳前掲書、p. 126〕。


 しかしそれはともかく、文章を書き始めてあらためて気づいたのは、すでにぼくの世代においては、動物文学の流行は、メディア・ミックス的展開のなかにあったということである(それは1970年代、動物文学に触れる契機が一方で広がり、一方で狭められたことも意味する)。今回はまだ触れていないが、ぼくの場合、活字の世界では学習研究社の『科学』『学習』(とくに後者)、マンガとのあわいにある『ひみつ』シリーズなどの影響が強かった。そして活字世界への導き手としては、今回も言及した「カルピス世界名作劇場」のほか、テレビの「日生ファミリー・スペシャル」、移動劇場の「母と子のよい映画をみる会」などが、重要な契機となっていたように思う。次回はこれらについても述べながら、いまはほとんど読まれなくなってしまった、J.W.リピンコットなる作家の動物文学を論じてみたい。