資料紹介(3) 攀登

第1号(1913[大正2]年9月) 表紙


回覧誌『攀登』は平岩が東京府立第三中学13年生のときに登山好きの同級生とつくった結社「峋峯会」の会誌です。平岩蔵書には第1号、第3号、第5号が現存しています(編集を担当した号を自ら保管しておく決まりがありました)。


※1 当時、東京府立の旧制中学は4校。


峋峯会結成と『攀登』第1号の発行は1913(大正2)年9月。最愛の父が亡くなって1周忌を終えた頃と重なります。

伝記『狼と生きて』に平岩は小学生から中学生まで、将来は自然地理学を修めることを希望し、この頃には登山に熱中していたとありますが、その様子が本誌からありありと伝わってきます。


第1号 目次


連珠の棋士名として用いた麗山は、この頃に使い始めた筆名であることがわかります。




第1号 発刊の辞(麗山筆)


『攀登』発刊の辞

「山嶽稜々乎として人を厭するの慨(ママ)あり」と、実に然り。大嶽峋峯地を蹴って天底に近く、山背蛇行蜿蜒として万里の外に連る。眼界山又山、千山万岳・高峯大嶽畳重して高きを競うにも似たり。白雲皎々たる高峯、怪雲徂徠する間に峥嶸として聳ゆ。

自然の壮大は、山を以て尽せりと云うも又過言に非ず。天の響地の響、無限絶大なる権威を有するもの之れ山嶽なり。実に山嶽は自然の発現と謂うべし。此の山嶽に接し山嶽に親しみ、自然に親しむは、実に人生至高至大の幸福にして又快楽たり。千古不変、造化の愛弟子たる此の山嶽の絶巓に立ち、塵界俗境を睥睨し自然に抱かれて浩然の気を養う。何ぞそれ攀登の快の偉大かよ!!!


対句表現を用いた漢文訓読体(今体文・普通文と呼ばれていました)の調べが山々の崇高な様を描き出すと同時に、雄勁な美文2のなかに登山の喜びと少年の若々しく快活な生気が溢れています。


※2 現在では「修辞上の技巧を凝らした華美な文章」というくらいの意味で使われ、ネガティブな語感さえある「美文」ですが、北川扶生子さんの『漱石の文法』によると、もとは「対句表現や反復表現などを頻繁に用い、韻律に富んだ」(60)読んで美しい文章のことで、明治20年代後半ころから同30年代にかけて「美文の時代」とでも呼ぶべき流行期が存在していました(58)。


第3号(1913[大正2]年11月) 表紙(麗山画)


第3号 目次





峋峯会ははじめ、会員2名と顧問1名(担任の古川先生)でしたが、第3号(1913年11月)では参加者が増え、誌面も充実していました。


第3号 「登山の印象 忘れ得ぬ人」(麗山)


平岩もさまざまな文体を駆使して投稿。

国木田独歩「忘れえぬ人々」を模して、登山中に出会った忘れえぬ人々を記すなど、言文一致体の創作的ノンフィクションにも挑戦しています(本作は竪川講[江戸期に竪川付近の材木問屋を中心に形成された三峰講]の明治期における小さなフィールド記録にもなっています)。


その勢いは第3号の会報欄附記にも表れています。


第3号 会報欄 附記(麗山筆)


附記

我が三年に会を成すもの、五あり。曰く「松風会」曰く「元禄会」曰く「峋峯会」曰く「怒涛会」曰く「青燈会」之れなり。人数を以てせば、元禄会の八十人を最となし、松風会の二十名之れに次ぐ。

基礎の確実、活動の振盛を云わば、松風会を最となり(ママ)、我が峋峯会之れに次ぐ。会員の成績を云わば、松風会他に比なく嶄然として頭角を現す。

豪壮を以て称せば我が峋峯会、第一に位し、怒涛会之れに次ぎ、松風会・元禄会は、文学を主とせり。

青燈会は一名「惰(ママ)落会」「落第会」の名あり。

此の間に立ちて活動する我が峋峯会員、大いに厥(ママ)起し以て他会の人目を眩耀せよ!!!


旧制中学の生徒たちが結社と回覧誌を介して交流・競争していた様子が想像されます(平岩は松風会の会員でもありました)。

平岩の雑誌作りの原点もこのあたりにありそうです。

しかし、第5号(1914年5月)になると発行までの期間も空くようになり、巻末に「おわび」が掲載されます。


第5号(1914[大正3]年5月) 巻末

此の度の雑誌の振るわなかったのはいくえにもおわび致します。

次号発行は八月頃、例会は未定。

本号頁数七十二頁


原稿の集まりが悪くなったのでしょうか、ページ数も大幅に減り、第3号に見えていた「評論」「学術」「文芸」の分類もなくなっています。

平岩蔵書に第7号がないことからすると『攀登』は5号または6号で廃刊しているのでしょう。

中学4年となり、それぞれが進路を真剣に考える時期になった3ことも関係あるかもしれません。


※3 文部省の統計によると、平岩が中学に入学した明治44年度の全国の公立中学校1年生の総数が26,195人であるのに対し、卒業する大正5年度の卒業者総数は15,843人で、およそ40%が落第、家事、金銭、転学、病気等の理由で留年・退学しており、卒業まで辿りつけない者が多くいました。


父の死のために周囲から勧められていた一高受験を放棄4し、「家業は継がず、好きなことをやれ」という父の遺言もあって、短歌と連珠の道を進み始めていた平岩は第5号に次のような詩を残しています。


※4 帝国大学の予科であった第一〜第八高校への大正6年度の志願者数は4,759人進学者数は2,356人、うち東京帝国大学予科の性格が強い第一高校進学者は198人で、狭き門だったことがわかります。



第5巻「我が行く光」(麗山作)





我が行く光


限りある日の過ぎ行くことよ
ほろほろと椿散りけり
日月逝きぬ光明 我にせまらず
など電光のごとくはするや
など流星の如く速なるや
再び来らず若き日の宝玉


太陽の射熱は被う 絶対の海
リンコンシャイヤーの光を見よや
空かんばしく花降りて
響しは天の轟 地の叫び
闇の黒幕 たち籠めし
無限の空の大海に
照る明星と見えつらん


トゥリニティーの蛟竜は
花木に優さる薫郁や
清駚に勝れし勇熱の
上に高く輝く日輪なりき


舜何人ぞやと
功名の情熱に燃え燃えし顔淵の心理の
    裏にかかれる言!
 青年の潤う澄める瞳の光を
希望の自由に伸ばさしめよ


大瀛の岸に遊べる幼子に

 いかで彼と我れとの[別:ケジメ]やあらん


前進の声に鞭打ち

我が駒の行く手!

  山あり川あり谷あり海あり


あゝよしさらば
雲湧き地振う泰山来れ
岩に摧けて音凄まじき大河も来れ
紫藤の蔓に白日かくるる渓谷来れ
海若怒り激浪狂う大海来れ
我に堅忍不抜の剱あり
なぞ泰山を恐れんや
我に奮闘努力の旌旗あり
なぞ大流にくじけんや
我に百折不撓の心あり
なぞ渓谷に擬議せんや
我に剛健の体あり
なぞ大海に驚せんや
我れは高く遠く輝く真理に至らん


我が両手 蒼々の天を支えぬ
我が双脚 大■※5の地を踏みぬ
見よや我が手に輝くペンの光を
 見よや此の筆の光を!!!


※5 「怒」を「恕」と間違えたか

もう子どもではいられずに、身を立てていかねばならない自分には「堅忍不抜の剱」「奮闘努力の旌旗」「百折不撓の心」「剛健の体」があり、「高く遠く輝く真理」に至ることができるだろう、「ペン」で成功することができるだろう。

境遇と才知からくる夜郎自大的な自尊心と、父亡き後の少年乃至は青年が抱く不安を覆い隠すような自立心は、この詩を書くことによって再び内面化されていたのかもしれません。
この詩からはまた、官吏や軍人などとして国家のために生きるのでなく、「好きなこと」を追求して生きていこうとする、当時の青年たちが直面した問題でいうところの「個人主義」的な生き方を選んでいこうとする青年の姿を看取ることができます。

平岩蔵書には松風会の回覧誌も保存されていますので、いずれそちらも紹介したいと思います。