資料紹介(2) 変態随筆 第1輯



『変態随筆』は1931(昭和6)年から33年にかけて平岩米吉が発行していた個人雑誌です。第1輯から第6輯までが現存しています。

雑誌といっても、体裁はほぼ四六判、最大で46ページ(第5輯)の小冊子という趣で、自身が関心を持って調べたことをまとめた、研究ノートと呼ぶべき内容です。

今回は1931(昭和6)年4月に刊行された第1輯「白獣崇拝」を紹介したいと思います。


【構成】
表紙
創刊の辞
本文12ページ
後記、奥付
裏表紙

表紙には白狼(大口真神)信仰のある(現)武蔵御嶽神社の護符に描かれた狼が採用されています。

装幀を手がけたのは大崎善司。大崎はこれ以後も平岩の書籍や雑誌の装幀・カットをたびたび手がけています。1934年に亡くなった平岩の愛犬チムの亡骸を写したのも大崎です。大崎の死後に平岩が記した2人の出会いのエピソードなどは、由伎子さんによる平岩の伝記『狼と生きて』に収録されています。


創刊の辞には以下のように記されています。


 私の変態研究がいつのまにか知友の間にひろがって、時には思いがけない人から、質問を受けたりする。なかには過分の御讃辞を下すったり、発表をすすめられたりする方もあるが、何分、非常に広汎な、それも我儘千万な各方面の事柄にわたっているので、これを組織的に整理して発表するのは一朝一夕の術ではない。その上、恐ろしく気儘な私の性分から、いつ、編纂に着手する事になるかは自分でも見当がつかぬのである。此度、月刊雑誌「母性」を出すことになったが、勿論之れは、私の持っている一小部分の仕事に過ぎず、且、同誌が一つの社会運動的色彩を持っているものである以上、勢い旗標を鮮明にせねばならず、結局、かなりの拘束を感じないわけには行かぬのである。で、私自身、自分の不精を鞭撻して、山積せる材料の整理をするため、ここに極めて自由な、極めて呑気な態度と形式で、その整理機関を置くことにしたのである。「変態随筆」即ちこれである。


ほとんど同時期に創刊した『母性』には決まったテーマがあるので、『変態随筆』はそこに含まれない自由なテーマで臨むことが宣言されています。

その第1輯として編まれたのが「白獣崇拝」でした。


 白を純潔高雅の象徴として神聖視することは殆ど各民族共通の事柄であるが、我々の祖先に於ては、それが最も著しかった様である。事実、日本古典に現われるところの鳥獣はその大部分が白色であり、いずれも一種の神秘性が与えられている。また、我々が現に継承しつつある説話にも白狐、白蛇、白馬、白鼠等、白色のものが甚だ多く、しかも、我々自身、又犬や兎其他の愛玩獣について、その白色のものに対しては特殊の愛好を示しつつあることも事実である。


このような書き出しののち、最古の白獣記録として有名な因幡の白兎のほか、白鹿、白狗、白狼、白猪、白鳥(しらとり)、白亀、白馬、白狸など、記紀、古風土記の記述を中心に採録。最後にインドおよび中国の事例をいくつか挙げ、日本の白獣崇拝が中国文化の影響の強いことを論じています。

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昭和5年より始める犬科動物の生態研究で知られる平岩ですが、それより以前にはこうした文献研究を主としていました。
その一部を示す平岩の蔵書が大正元(1912)年*1より刊行の始まる本邦初の古典全集『有朋堂文庫』です。平岩はこのシリーズを購入し、古典にあらわれる動物の記述を調べています。
この特集「白獣崇拝」は、こうした文献研究のノートとして位置付けることができるでしょう。

*1 『世界名著大事典 第6巻』(1961)による。ただし、国立国会図書館デジタルコレクションでは明治43年に『平家物語』が刊行されていることが確認できる。

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さて、先ほど挙げた「創刊の辞」には、もうひとつ注目すべき記述があります。冒頭の「私の変態研究が」という箇所です。
そもそも『変態随筆』という雑誌名自体が現代的な感覚からすれば、ずいぶん珍妙なタイトルであるように思います。

この「変態」という語は、『変態随筆』が創刊された昭和6年ごろにはある種の流行り言葉であり、大正初期から続く知の潮流で、この間「変態」のつく書籍や雑誌が数多く刊行されていました。
ここでいう「変態」とは、abnormal、つまり「常態、正常でない」ことをあらわす、ある意味で融通無碍な概念でした。

この「変態ブーム」に平岩も影響を受けたようです。

菅野聡美さんの『〈変態〉の時代』によると、「変態」という語が広く使われ始めたのは明治の末ごろから「変態心理学」なる領域が広まったことにあります。福来友吉が東京帝大で「変態心理学」の講義を持っていたことでも知られています。

大正6(1917)年5月には夏目漱石に師事して小説を書き、催眠術や精神医学にも関心を持っていた中村古峡が日本精神医学会を設立。10月、その機関誌『変態心理』を創刊します(『『変態心理』と中村古峡』)。

この日本精神医学会では、一般の人々も参加できるさまざまな講習会や談話会を企画し、『変態心理』を通して告知や報告をおこなっていました。

この講習会に若かりし平岩青年も参加しています。(以下の画像、一部加工あり)

第2回変態心理学講習会レポート(『変態心理』2巻5号,1918年9月,復刻版より転載)


別科出席者に名前あり

第3回変態心理学講習会レポート(『変態心理』3巻6号,1919年6月,復刻版より転載)



第3回講習会出席時の住所が芝になっているのは、母親の実家に身を寄せていたからでしょう。

平岩はこの頃、精神病の治療所をいくつか訪ね歩いているのですが(『狼と生きて』)、なかでも2ヶ月近く通ったのが森田療法で世界的に知られるようになる森田正馬が院長をしていた根岸病院でした。

森田は20歳そこそこの平岩青年の訪問に応じ、懇切に指導したようですが、森田が講師を務めた変態心理学講習会への参加が2人の交流のきっかけだったと思われます。森田はその後、平岩が創刊する雑誌『科学と芸術』にも寄稿しています。

このときの変態心理学への接近は、平岩のその後のマージナルなものへの関心を考えるうえで重要な出来事であるように思います。

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「変態」は「変態心理」と「変態性欲」の流れを合わせながら、「アカデミズム」だけでなく「趣味」や「教養」、「ジャーナリズム」などが混淆する領域となっていきます*2大尾侑子『地下出版のメディア史』)。
(平岩蔵書にもこの流れを反映する「変態本」がさまざまあるので、いずれご紹介できればと思っています。)

*2 戦前期における「権力への抵抗」や「教養人たちの知的遊戯」という思想史的・文化史的側面に注目した研究がなされています。

昭和6(1931)年に発行する『変態随筆』は、このように展開された「変態」という雑多な領域のうち、自身の関心のある「非常に広汎な、それも我儘千万な各方面の事柄にわたっている」テーマについて渉猟した文献の内容をまとめる研究ノートであり、親しい人や関心を持ちそうな人に配ることで交流を図るささやかなメディアでした。

しかし、それも創刊と同年から始まる満州事変以後、軍事色が強まる世相のなか発禁の憂き目に合うことになります。それについては改めて書いていきたいと思います。