資料紹介(1) 犬と狼


第1回目は平岩米吉著『犬と狼』(1942、昭和17)。表紙をプロジェクトTwitterのヘッダー画像に使用しています。

装幀を手がけたのは『赤い鳥』の表紙・口絵でも知られる清水良雄。
動物好きだった清水は「動物文学会」(1936年9月に創設され、雑誌『動物文学』は本会の会誌となる)の会員でもあり、誌上にもたびたび登場しています。

例えば、1942年9月刊の87輯に掲載された座談会「動物愛護運動を語る」では、動物愛護会の広井辰太郎(誌上参加)や日本人道会の渡邊和一郎らとともに登壇。
この座談会については、片野ゆかさんによる平岩の伝記『愛犬王 平岩米吉伝』(2006)にも詳述されています。

さて、本書『犬と狼』は平岩の動物文学関係の最初の著作で、動物文学随筆集『私の犬』(教材社)とほぼ同時に刊行されました。
「序」によると、昭和13、14年に執筆したものを中心とする「飼育動物の観察に基づく文章のうち、科学的な色彩のあるものの大半」を、「手記」「随筆」「考証」「研究」に分けて配列し、収録したとのことです。




「手記」は日常の観察記といえる内容ですが、そのテーマが「シマハイエナ」「ツキノワグマ」「ジャコウネコ」というのがその特殊な生活を物語っています。
目次を見ただけでも、現在でいう動物行動学のはしりとよべる研究(平岩本人は「生態研究」と言っています)だけでなく、歴史や民俗にも通じていたことがわかるかと思います。

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さて、本書が「科学的色彩のあるもの」を集めた論集であるのは、本書を日新書院から刊行された「自然観察叢書」に入れるという事情に合わせたからでしょう。



日新書院とは山谷太郎が経営する出版社でした。山谷はバードウォッチングの愛好家でもあり、中西悟堂とも親しい人物(父は医療ジャーナリスト山谷徳治郎、息子に脚本家倉本聰氏)。このような場に近代日本におけるネイチャーライティングの叢書が刊行された、というわけです。

この「自然観察叢書」に山谷は以下のような刊行の辞を寄せています。

 日本に於ける科学教育については、仔細な再吟味を要すると思う。断片的な知識の詰め込み、試験本位の学問、これらが如何に現代日本人、殊に若い人達の科学愛好の精神を阻害していることか。
 一度び眼をそらして大自然の姿を観、その息吹に接してみるがよい。声なき声を以て法の厳粛を語り、文字なき文字を以て真理の威厳を綴る。太陽は無意味に黄道上の旅を反復せず、一介の虫一茎の草も無駄には季節の形貌を変えぬ。
 私は更らにかく思う。この大自然は法と科学と芸術の三位一体の上に成立っていることを。蓋し自然は科学と芸術、知識と詩の渾然たる一融和体であり、而して詩の精神は直観、科学の精神は観察である。古来日本人の魂は詩の精神については永い伝統を以て豊かに培われて来た、然し観察の面に於て甚だしく欠くるところがあった。自然を詩として受け容れることには鋭敏である日本人が、科学として観ることに訓練が不充分であったことは、日本人の科学精神の発達に大きな障害となっているのを否むことは出来ぬ。詩を愛する日本人は多いが、科学を愛好する日本人の極めて少いことも這般の事情を物語っていると思う。科学技術の発達促進を叫んでも結局姑息な手段では百年千年の大計とはなり得ない。本当に科学を愛好する精神を次代の国民に植えつけることから、日本の科学教育は再出発をせねばならぬ。
 以上によって本叢書の企画された意義も自ら明かであると思う。これはいはば従来の教室内の無味乾燥な科学教育に対する一つの抗議でもあって、本叢書が読者に要望するところは自然そのもののなかから、深き歓喜とともに直接真理の言葉を聴きとることであり、自然に対する無限の愛情と克明な注意、不屈の精神のもとにものを正しく観る眼が養われてゆくことである。
 本叢書の出版が今日の日本に多少ともお役に立ち得ればこれに越した喜びはない。



要約すれば、「自然を観る目を科学化し、日本人の精神を全きものとせよ」となるでしょうか。
科学教育とナショナリズムの結びつきは、その背後に列強への劣等意識を透けさせながら、山谷だけでなく、この時代の知識人・出版人らによる「科学と大衆」、あるいは「自然と文学」にわたる領域の言説を形づくっていました。
(叢書を構成する個別の作品がそのような目的や意識で書かれた、というわけではありません。)

他にも、春陽堂少年文庫の「知識シリーズ」には、以下のようなはしがきが見られます。

(本書のような知の大衆化を志向する啓蒙的科学書と、文学的要素を有するネイチャーライティングとの関係は別途考えなくてはならない問題です。)







『面白い動物の知識』(1933)、国立国会図書館デジタルコレクションより転載


 今日の文明は、科学の土台のうえに築かれています。
 ところが、日本ではどうでしょう?科学は学校の教室や一部専門家の問題である、というような考え方が、まだまだ多くの人にのこっています。これは、非常な誤りです。また、日常の生活が充分科学化されておらず、その点、欧米の文明国と比べて、数歩劣っています。これは非常に悲しむべきことです。
 これには、いろいろの原因がありましょうが、日本の従来の教育方針が誤っていて、科学は無味乾燥なものだという間違った考えを、日本人の頭に植えつけたことが、最も大きなものです。そんな次第で、興味深い面白い科学書を提供するということも、従来はあまりなされませんでした。[後略]



後者は主に子ども向けであり、自然を志向するか、生活を志向するかの違いはありますが、帝国主義を駆動するイデオロギーが科学と大衆を結ぶ出版文化のなかに顕在化しているという点は、山谷の刊行の辞と共通しています。

ただ、気をつけなればならないのは、これらはあくまでステートメントである、ということです。公的性格を持ち、行為の目的を明確にすることが求められるステートメントはときに過剰にもなり得ますが、出版者も読者も日常をステートメントに則って生きてはいないでしょう。

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『犬と狼』は1990年に築地書館から復刻されており(他の著書も90年前後に復刻)、復刻版の「あとがきに代えて」で平岩の長女由伎子さんは原書出版後の経緯を以下のように説明しています。

『犬と狼』は第二次大戦の激化にともなって行われた出版社の統廃合などから、出版後まもなく絶版になり、『私の犬』とともにながらく幻の名著といわれてきました。


現在手に入るのはほぼこの復刻版かと思われますが、復刻版では本書が「自然観察叢書」の1冊であったというコンテクストが落とされています。由伎子さんは「あとがき〜」で「『犬と狼』は生態の観察研究の書でありながら文学性が豊かであり、『私の犬』は科学をふまえた動物文学」と2冊の棲み分けについて述べていますが、同時代の社会の文脈を理解するためには、原書に触れることも重要なことですね。

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ちなみに、『犬と狼』『私と犬』が刊行されるのと同じ年から、平岩を監修者にシリーズ出版される「世界動物文学選集」(教材社)に平岩が寄せた刊行の辞は、上述したような科学イデオロギーとナショナリズムとはまったく異質の存在論を開陳していておもしろいのですが、それについては記事を改めたいと思います。

最後に、本書はナチュラルヒストリーの膨大なコレクションを築いている自然誌古典文庫さんも「100冊」に挙げていらっしゃることを紹介して終わりたいと思います。